情報の取捨選択について
時々自分が踊らされている、と思うときがある。
ラジオを聴いているとき。
新聞を読んでいるとき。
テレビを観ているとき、オンラインニュースを観ているとき、人の噂をきいたとき。
いつでも正しい判断をしたいと思いながら、そして正しい事実だけ知りたいと思いながら、私にはそれを正しいと判断するほどの経験と知識がない。
それなのに、外部から与えられた情報を愚直にも信じてしまう。
メディアから流される情報を鵜呑みにしてしまう。
そうしてそれをまた人と話す。
「○○なんだって」、「○○らしいよ」と。
けれども私が知り得た情報としてまことしやかに人に話すことは、その裏をきっちりとれていない又聞きの至極あやふやなものに限られるのである。
それをさも真実として人と議論すること。
そのことに対する危機感を感じるようになったのは、恥ずかしながらごく最近である。
もしも私が、世の中に流布する、ある間違った情報を真実と思い込んで次の人に伝えてしまったとしたら、その伝えられた人はまたその情報を真実と思って次の人に伝えるだろう。
世の中は伝言ゲームのようにできているのだ。
正しいことも、正しくないことも、途中途中で尾鰭をつけながら、さも事実のような顔をして泳いでいくのである。
もしもそれが、無実の人をさも罪人のように誹謗するものであったらば。
私は知らぬうちに人を貶める片棒を担いでいることになるのである。
ただ、口をつぐんで生きていくことはできない。
だからこそ、言葉の取捨選択にはよっぽど気をつけなくてはいけない。
言論の自由と言うのは守られるべきだけれども、言葉というのは時として武器よりもよっぽど人を傷つけるものなのである。
世知辛い世の中で、最近ようやっとそこに思い至ったのである。